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Hiroya Hashimoto

Glimpse of the unknown in my hand.

Updated: Jun 18, 2023


 


 たまたま入った喫茶店でこれといった理由もなく選んだ座席。テーブルの側には年季の入った木製の本棚。コーヒーが来るのを待っている間、その本棚に入っている本を見渡す。パッと目についた写真集らしき一冊を手に取る。パラパラとページをめくる。夕暮れ時の川辺に浮かぶ錆びついたボート。無愛想な目つきでこちらを見つめる農家のおじさん。木陰で寝ている野良犬とそれをじっと見つめる少年。そこには見知らぬ土地の情景や、その土地で暮らす人々の生活が写真として収められていた。同じ地球上、何かのきっかけでその土地に訪れるかもしれないし訪れないかもしれない。写真の中に存在している野良犬や白髪のおじさんとばったり出会うかもしれないし、出会ったとしても気づかないかもしれない。


 そんな遠いかも近いかも分からない地点に息づく生を感じて、僕はなぜかほっとした。



 

 23歳も終わりを迎えようとしている。今はTasmaniaはBurine(バーニー)という土地で生活している。人口約15,000人、海抜10mほどのコンパクトな港街だ。これでもTasmaniaでは4番目に人口が多い街で、生活必需品などは全て街のスーパーで手に入る。車を所有していないと生活を送れないが、運転が好きなのでストレス無く暮らせている。タスマニアと聞くだけで不便な生活を想像する人も多いかもしれないが、車と自然を愛する心さえ持っていればなんてことはない。街から3分ほど車を走らせ郊外に出ると、広大な空と大地、草を食べる家畜達で視界は埋め尽くされる。



 3ヶ月しか暮らしていないが地元の次に愛着の湧く街になった。残念な事といえば、道路上に横たわっているワラビーやパディメロンの死体を見てもなんとも思わなくなってしまったことだ。しかしこれもまたローカルライフの一部であると理解する。(タスマニアではロードキルが問題である)道路に街灯は無いので夜はなるべく運転しないようにしている。



 そんなスロウでシンプルな土地での生活。今や自分にとっては平凡な日常生活となったが、日本の都会で暮らしていた頃からすると毎日が非日常のように感じる。結局人は時間が経つとどんな環境にも慣れてしまうのだと思う。良くも悪くも。そして、だからこそその時に感じた事や見た光景を記録する行為はとても有意義なことなのだと思う。なぜならその時点では取る(撮る)に足らない事象でも、未来の自分からすると全く新しい感情が湧いてくるかもしれないからだ。

 


 写真を写真として撮り始めて2年ほどになるが、これまでは「目の前で起きている現象のせいで自分の内に何かしらの機微を認識した時」にしかシャッターを切る動機がなかった。理由は単純で、目に入るもの全てをパシャパシャするよりも被写体を主体的に選択する方がよっぽど”写真家っぽい”と思い込んでいたからだ。今でもその考えは持ってはいるものの、ここ最近はよりメロウな態度で写真を撮れるようになってきた。というのも、その時点では瞬発的な撮影欲求を掻き立てる情景ではなかったとしても、1ヶ月後の自分にとっては感情を揺さぶる情景になっている可能性もあるからだ。つまり、その情景は単に見慣れてしまっていたりその時の興味の範疇に入っていないだけで、写真を介することでフレッシュな感情を後に生み出すパワーを宿しているかもしれない。

 

 かといって、「とりあえず記録しておこう」という態度で写真を撮るわけではない。「この光景を1年後に見たらどう思うんだろう」というような、言わば友人にサプライズプレゼントをする前のワクワク感がカメラを構えさせるようになった。この意味において未来の自分は赤の他人であり、過去の自分ももはや"自分"では無いとも言える。そして、そんな"自分"では無い誰かしらの内側に何かしらの感情を生み出せたら幸せだなと思うようになった。



 こんなめんどくさい事を考えるきっかけになった出来事がある。たまたま入ったカフェに置いてあった一冊の写真集を見たときの話。そこには見知らぬ土地の風景や人々の日常生活が淡々と収められていた。それらを見ていると何故だか言葉にできない温もりのようなものを感じた。音楽を聴くのも映画を見るのも絵を鑑賞するのも好きで、その度に色んな感情になることがある。しかしそれらとは全く異なる感情が内側に生じた気がした。今になってあえてその感情を言葉で捉えるとするなら、「俺も生きているんだなぁ」というボワァ〜ッとした湯気のようなものと言ってもいいだろう。10cm×15cmほどの長方形に保存されているその刹那は確かに同じ地球上に存在していて、広い目で見れば同じ時間空間を僕も共有していたのだろう。そんな"他者"の息づかいを掌で眺めることで自分の鼓動がいつもよりも大きく聞こえた気がした。平凡な日常の流れのなかに現れた出来事であった。



 

 この文章は、その時内側で生じた感情の輪郭やその経験が自分の写真に対する態度に及ぼした影響の片鱗を捉えるための作業机のようなものである。多少片付いた気はするけれど、また後で散らかることも承知の上である。けれど当分は、"自分"以外の誰かにちょっとでも生を感じてもらえるような写真を残せたら幸せだなと思う。






 




















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