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Niji



 2023年5月10日。僕らは旅に出た。この旅で見たもの感じた事は山ほどあるけれど、やはりSouth West National Parkで見たあの虹はこれから先も忘れることはないだろう。あの時沸き起こった感情が霞む前に記しておきたい。そうすればきっとまた戻って来れるはずだから。



 Kaiの住むDevonportから西回りでタスマニアを巡る8日間程のロードトリップ。2人と物資を運ぶのは36万キロ以上走行しているボロボロのHyundai Santa Fe 2001。燃費は7km/L。事前にガソリン代を計算するのは怖くてやめた。


 旅の始まりはSouth West NPでのマルチデイハイク。Lake Pedder 付近のHuon Campgroundに車を止め、そこからLake Oberon を目指すWestern Arthurs Traverse。オーストラリアで最も人里離れた場所に位置する国立公園。ネットもつながらず雲の動きも速いため天候への臨機応変な対応が求められる。その深さ故、山小屋や飲料水タンクなどの設備はひとつもない。登山経験が浅い僕らは3日分の山メシと着替え、キャンプ道具一式を撮影機材と共にザックに詰め山中での万が一に備える。幸いなことにHuon Liver の支流に沿ってトレイルが伸びているので飲み水は確保することができそうだ。

  

 

Day 1


AM 5 : 30 

登山届けを提出。ヘッドライトを頼りに暗闇のなか草木をかき分ける。傾斜はそれほどなくただひたすらに地味で鬱陶しい泥道を進むだけだ。


AM 10 : 00

一つ目のジャンクション(Junction Creek Campsite)に到着。 ペースは予定よりも大幅に遅れている。道が乾いていたらもっと余裕を持てていたはずだ。


AM 11 : 30 

ここから一気に800m分標高を上げる。「さぁ踏ん張ろう」と言ったところで2人の腹が鳴り始める。近くのデカい岩の上に座り昼飯を食らう。腹6分目くらいで我慢をして水筒の水で乾いた喉を潤わす。

「こっからが山場やな」

「頼むから天気もってくれ」

昼飯の片付けをしながら自分達に喝を入れる。

PM 14 : 00

稜線に出る。今回目指すLake Oberonはいくつもの山を越えた先にあるため、ここからアップダウンを繰り返すことになる。一気に急な傾斜を上がってきたため全身に疲労感がどっと出る。休憩を兼ねて風景の写真を撮る。歩を進めるのに精一杯でカメラをほとんど構えていなかったことに気づく。

PM 14 : 30

この時点で今日中のLake Oberonへのアタックは厳しくなってきた。予定よりも大幅に遅れているうえ、暴風の影響で雲行きが怪しくなってきたからだ。つい30分前までは快晴だったが、安全を優先して手前のLake Cygnusでテントを張ることにする。


PM 15 : 30

Lake Cygnusを目下に捉える。周りの山々に隠されるように静かに佇むその姿に息を呑む。

日没前にテントを張れる安堵感から足取りが軽くなる。

PM 16 : 00

湖畔に到着。湖を目視してから到着まで時間がかかった。巨大なスケールが遠近感を狂わせる。

「やっと着いたぁ、早くテント立てて着替えようぜ。」

「マジで疲れたわぁ、早くゆっくりしたい。」

 気温は5°。降りてきた山の影が向かいの丘にじんわりと伸びる。湖畔は風を遮るものが無い。夜の気温を考え少し離れた茂みにテントを立てる。誰にも会わずに1日を終えることになりそうだ。冷め切った体に温かいコーヒーが沁み渡る。





 

Day 2


 

 雨風の音で目を覚ます。時間を確認するとまだAM 3 : 13。寒さで足先の感覚が鈍い。体の疲労もまだ少し残っている。外の様子を確認したいが寒くて寝袋から出る気になれないし、テントに打ちつける雨風の音でコンディションが最悪なのは容易に分かった。もう一度睡眠に入る。


AM 5 : 30 

二度寝から目を覚ますと同時に、2時間前よりもさらに激しい音に気分が落ちる。Kaiもまもなく目を覚ます。


「ねれた?」

「うん、ぼちぼち寝れた。けど寒すぎる。」

「雨やばいな」

「これLake Oberon無理やな、、。」

「うん、きついな、。」


 2人とも寝ぼけながらも冷静な判断を試みる。キャンプサイトからLake Oberonへのトレイルは険しい岩場が続き危険が伴う。たとえ今日行けたとしても下山までプラス2日を要する。用意した食料が尽きる方が早いだろう。経験不足や天候の更なる悪化を考えて、今回はこのまま引き戻すことに決定する。悔しい。しかしやむ終えない。安全が最優先だ。


AM 6 : 30

雨が弱まった隙にテントをたたむ。防水袋に撮影機材を入れザックの奥にしまう。今日はただひたすらに来た道を帰るだけになりそうだ。つまらない。


「よし、いくか!!」


空元気が湖畔に響く。


AM 7 : 00 濃霧のせいで全く前が見えない。台風並みの暴風が体を揺らす。まっすぐ歩くのが困難だ。こんな動物も人間もいない場所でびちょびちょになりながら重たい荷物を背負って何をしてるんだろう。苦しい時にいつも考えてしまう思考がぐるぐると巡り始める。



AM 9 : 00 

綺麗な景色どころか3メートル先は霧しか見えず、何度もルートを外れそうになる。離れた後方を歩くKaiとの会話はない。ダラダラと垂れる鼻水を雨水で拭う。

早く帰って温泉に浸かりたい、とご褒美のことばかりを考えてしまう。しかしタスマニアに温泉などあるわけもなく、余計に気分が沈む。


 やはり目の前の一歩に意識を向けることでしか今の自分を楽にしてあげられないのか。余計なことを考えても何も状況は変わらない。自問自答を繰り返しながら改めて自然の大きさと人間の小ささを思い知る。こんなに必死に歩いているのに、全く前に進んでいる感じがしない。けれど足を前に出すことしかできない。一歩一歩。歩幅やリズムは違えど確実に地面をとらえようとする。


「もう少し左足を前に出せば滑りにくい地面に足をつける」

「そのためには右足を踏ん張りやすそうな手前側に着いた方がいいな」

「そうするとそこにある花を踏んでしまうからもう少し右に着地しよう」


 目の前の一歩に集中することで、これまでは気づかなかった些細なことに意識が向く。今この瞬間だけを意識することで、ちっぽけな人間でも巨大な自然と対話できている気がする。動物の足跡や糞、往路では気にも留めていなかった花や虫がどんどんと視界に入ってくる。



足が勝手に次の一歩を選んでいる。徐々に足音も小さくなっていき呼吸の音だけがはっきりと聞こえてくる。白い吐息と立ち込める霧との区別がつかなくなり、体が白く溶け込んでゆく。淡々と動く脚、着地する地面の情報だけが連続的に処理されていく。目の前で起こる一連のリズムをただ眺めている。どれだけ歩いたか検討もつかないままに、ひたすらに歩いていく。ずんずんと、ずんずんと。自然と自分との境界線がなくなっていく。疲労感など微塵も感じない。とても気分がいい。あぁ最高だ。


 「ガサガサッ」


 突然、進行方向から物音が聞こえた。足が止まる。連動して意識が冴える。霧が晴れた先にいたのは一匹のウォンバットだった。ここで初めて野生の動物に遭遇したのだ。しかも、それは茂みに隠れたり怯えて逃げたりすることはせず堂々と僕らの行く手に居座っていた。ウォンバットはタスマニアの山にはどこにでも生息している草食動物だが野生では臆病なことで知られている。


「なんであんなに堂々としてるん」

「全然動かへんやん」


 2人して足を止める。じーっとそれを見つめる。数分間だろうか、動かないウォンバットをぼーっと見つめる。そうこうしているうちにそれは茂みへと消えていった。もやっと不思議な気持ちになる。


AM 12 : 30 

突然の未知との遭遇でペースが乱れる。その場で休憩をとる。一度座り込むと乳酸が全身に溜まっていくのが分かる。なんとか重い腰をあげ再出発する。


AM 12 : 50 

さっきまでのペースが嘘のように体が進まない。しんどい。肩が重い。荷物を全部おいていきたい。相変わらず地面はドブのようにぬかるんでいて、まるで田んぼの中を歩いているようだ。靴の中は泥水で満たされ太ももまでドロドロになる。


「あぁうっとうしいなマジで」

「地面やったらもっと硬くあれよ」


ドブ道に対して不満をぶつける。バカバカしい。とても気分が悪い。



AM 14 : 00 

なんとかJunctionまで到着。このペースだと日没頃にcarparkに着くくらいだ。少しだけ安心したのも束の間雨がまた強くなり始めた。ナッツとフルーツバーを腹に入れ重い腰を上げる。そして歩き始める。午前中に襲われたあの感覚にもう一度ならないかと期待を寄せながら、また余計なことを考え始める。


二日間誰とも会っていないが、この道を通った日本人って過去にどれくらいいるのだろうか。

この道はどんな動物が利用しているのだろうか。

この花はいつからここで咲いているのだろうか。

この枯葉はいつ枯れたのだろうか。


自分には知り得ようもない問いが浮かんでは消える。そしてまた浮かんでくる。

考えては諦めて、空っぽになって足を動かす。はぁ。俺は何をしてるんだろう__。



「まぶしっ!」


突然Kaiが大きな声を発する。と同時に左前方から差し込む太陽の光に気づく。


「うわ!太陽や!やっと出てきた!!」

「めっちゃ久しぶりや!」


声が高ぶる。一気に体温が上昇する。こんなにも太陽をありがたく思ったことはない。ずっと分厚い雲に遮られていた日の光が僕らを直撃する。しかしあまりの眩しさに僕は反射的に右後方に顔を逸らしてしまう。するとそこには、今まで見たこともないくらい鮮明で大きな虹が頭上に架かっていた。

 

一瞬の出来事だった。


「ぇ、、。」


 思わず言葉が喉元で詰まる。全身にゾクゾクッと鳥肌が立つ。じわじわと鼓動が大きくなっていき、足先から脳天にかけて血流が逆行する。と同時にそのカラフルなゲートの残像がこちらに弾き出され、僕の頭上すれすれを通過する。


ビビッ!!


 その瞬間全身に電流のようなものが流れる。息が止まる。さっきまですごい勢いで逆流していた血液が一斉にピタッと止まった感覚。んん!なんだこれは。

 

 虹ができる場所やメカニズムは全くわからないが、確かに僕はそれと一瞬だけ繋がった気がした。目頭がじんわりと熱くなる。これは全て頭の中で起きていることなのか。疲れずぎているだけなのか。でも確かに虹が視界に入った瞬間に発生した静電気のようなエネルギーはビリビリと体に残っている。あの一瞬で一体何が起こったのか。プロセスしているうちにだんだんと虹は薄れていく。


「すげぇ、、こんなにはっきり見える虹初めてや、、。」


Kaiがザックからカメラを取り出す姿を見て我に帰る。僕も焦りながらカメラを取り出す。

この感覚は写真では伝わるはずもないだろうと諦めながらシャッターを切った。



AM 15:30 

ゴールまで残り4kmほど。体は重たいが思考は妙に冴えている。冴えてもらわないと困る。あの一瞬の現象のリピート再生を何度も試みているからだ。スマホのメモに、「虹、静電気、つながる」と記録する。


「そういえば、あのウォンバットがおらんかったら多分あの虹見れてなかったよな。」


 後ろを歩くKaiの声が聞こえる。あぁそうか。なるほど、太陽が出てから虹が消えるまでの数分間、あの場所をあの時間帯に通過させるために奴は僕らを足止めをしていたのか。すぐに合点がいった。ドラマチックに考えすぎかもしれないが、全ての現象に原因があるとするならばそうとしか考えられない。無性に気分が晴れやかになった。あぁそうか。なんて気持ちがいいんだ。最高だ。


 自分の歴史よりも遥かに長くこの場所に存在している自然は、自分よりもきっと多くを知っていて多くを隠しているのだろう。このトレイルも先人達が歩いてきた遺物であり、所詮は同じ人間の足跡だ。もしかしたらもっと綺麗な景色や泥のない道を自然は知っているのかもしれない。こうして文字を書いている今この瞬間も、あの山の切れ目に虹がかかっているのかもしれない。僕がいちいち写真や文章に残さなくともそれは絶対的に存在していて、そこに他者の知覚を必要としない。人間はいつまでも深遠な自然に対する傍観者であり続けるのだ。そしてその断片の覗き見とでもいうべき行為を繰り返すことで現象を把握して感情を理解するのだろう。果てしない旅の入り口をくぐった気がする。


AM 16:30 

無事に車に到着。ザックごと地面に倒れ込む。達成感を圧倒する疲労感にしばらく放心状態になる。泥まみれの靴を脱ぐ。靴底には泥と一緒に名前も知らない雑草がこびりついていた。



 

Roadtripの終わりwith Kai


” Niji " by Hiroya Hashimoto ( canvas )













 

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